LOGIN「手順の線引きは、高瀬に任せましょう」「私を止める役まで、榊さんが引き受けないでください」 言い方がきつくなった。 律は一度、視線を落とした。「では、私からは止めません」「必要なら、こちらから言います」 律は、今度は言葉を足さずに頷いた。 素直な返事に、こちらの方が戸惑った。律は肘掛けの端を指で一度なぞった。「……今のは、少し八つ当たりでした」「受け取っておきます」 それで会話は終わった。 紙片の文字へ視線を戻す。 でも、紙片の文字はそこにある。 白桐産院。五月十七日。狭山。葛城へ。 紙片に並んだ文字は短い。短いのに、そこには人の出入りと、誰かの判断と、閉じられた扉の匂いまで混ざっている。産院という文字を見ているだけで、白い壁、薬品の匂い、泣き声を押し殺す誰かの手を想像してしまう。 祖母は、この紙をどこまで理解して残したのだろう。全部を知っていたのか、断片だけを拾って、私へ渡そうとしたのか。聞けない問いばかりが増えていく。守り袋は、祖母の愛の形だったはずなのに、今は刃物の鞘にも見えた。 祖母の死が、まだ乾かないうちに、私の出生は別の扉を開けている。 高瀬さんが紙片を保全袋に入れ、封緘した。管理番号を書き、時刻を読み上げる。宮野さんが守り袋を別の柔らかい布の上へ戻し、切った糸の写真を撮った。「葛城静司へ、正式に照会します」 高瀬さんが言った。「先方からの接触を待つより、こちらから?」「既に一度、封筒を送ってきています。接触の意思はあると見ていいでしょう。ただ、面会場所と同席者はこちらで指定します」「私も行きます」 私が言うと、律はすぐには頷かなかった。 また止められるのかと思った。 けれど、律は少し間を置いてから言った。「行く前提で、条件を詰めましょう」「分かりました」 私は紙片へ視線を戻した。 高瀬さんの端末に通知音が鳴った。 端末に表示された差出人を、全員が見た。
取り出された紙片は、指二本分ほどの幅しかなかった。端は黒ずみ、折り目のところが白く割れている。 高瀬さんがライトを寄せた。 紙には、青いインクで短い文字が書かれていた。『白桐産院 旧棟』『五月十七日 深夜』『看護師長 狭山』『葛城へ』 たった、それだけだった。 日付を読んだところで、目が止まった。 五月十七日。 私の誕生日。 頭では分かっていた。識別バンドにも、葛城から送られた写真にも、その日付はあった。 それでも、祖母の守り袋の内側から同じ日付が出てくると、別の重さになる。「……どうして」 声が、紙片の上に落ちた。 高瀬さんも律も、答えるまでに間があった。分からないことを分からないままにしているのだと、頭では理解できた。 それでも、今はその慎重さが痛かった。「祖母は、これを知ってたんですね」 私は紙片から目を離せないまま言った。「少なくとも、これを守り袋に縫い込ませるか、縫い込まれたことを知る立場にはいた可能性があります」 高瀬さんの言葉は慎重だった。「可能性」「断定できる段階じゃありません」「分かってます」 言ったものの、語尾は自分でも分かるくらい硬かった。 祖母は私に、あなたは誰かの代わりじゃない、と言った。 なら、どうしてもっと早く言ってくれなかったのだろう。 あなたがどこから来た子なのか。誰が隠したのか。誰が私を如月家に置いたのか。 聞きたかった。 もう聞けない。 手袋越しの手が、紙片に触れる寸前で止まった。「狭山という姓に、心当たりはありますか」 律が高瀬さんに尋ねる。「現時点では、ありません。ただ、白桐産院の旧棟は二十年以上前に閉鎖されています。その後、白桐記念クリニック、白桐メディカルセンターと名称が変わっている。KMSホールディングスの傘下に入った時期と、重なるかもしれません」「葛城へ、っていうのは」
「形見なら、大げさなくらいでいい」 返す言葉が見つからなかった。 窓の外で、信号の赤い光が雨粒に割れている。私は保全袋を抱えるように、両手を重ねた。 赤い信号が消えても、保全袋から手を離せなかった。 祖母。 祖母を責める考えが浮かび、すぐに打ち消した。それでも、問いは残った。 榊邸に戻ると、玄関ホールはいつもより静かだった。 葬儀から戻った私に、使用人たちは深く頭を下げた。誰も大げさに声をかけない。黒い喪服の裾が、磨かれた床に淡く映っている。 書斎にはすでに高瀬さんがいた。机の上には白い布、薄い手袋、透明の保全袋、撮影用の小型ライトが並べられている。宮野さんも少し離れた場所に立ち、裁縫箱ではなく、細いピンセットと糸切りばさみを用意していた。「朝霧様」 高瀬さんが立ち上がる。「作業前に確認します。これから見るのは、守り袋の外側と、縫い込み部分です。できるだけ布を傷めないよう進めます。全工程を動画で残し、取り出した紙片は別の保全袋へ。……よろしいですか」 言葉だけ聞くと、祖母の形見ではなく、事件の証拠みたいだった。 祖母の形見を証拠として扱う言葉に、返事が遅れた。 私は守り袋を見たまま、どうにか頷いた。 頷いたはずなのに、喉の奥はまだ固く閉じていた。 律が横から口を挟んだ。「始めたあとでも、あなたの一言で止めます」「止めたら、祖母が隠したものも、そのままになります」「隠したのか、守ったのかは、まだ分からない」 その区切りに、少し救われた。 祖母が嘘をついていた、と決めるのは早い。 でも、何も知らなかった、と信じるには、守り袋は重すぎる。 私は椅子に座り、保全袋から守り袋を取り出した。 薄い赤の布地は、ところどころ色が抜けている。角の金糸はほつれ、内側には細かな綿のふくらみがある。祖母の手紙にあった通り、裏側の縫い目だけが少し不自然だった。 宮野さんがライトを当てると、縫い目の下に、紙の影のようなものが浮かんだ。「縫い目の下に、紙が
葬儀場の裏口を出た瞬間、線香の匂いが薄くなった。 車輪が厚い敷物を押し、かすかな軋みだけを残した。 代わりに、濡れたアスファルトの匂いがした。夕方から細い雨が降っていたらしい。屋根の端から水滴が落ち、黒い石畳に小さな輪を作っている。 私は喪服の袖口を押さえた。まだ指先に、九条康生の視線の重さが残っていた。 あなたは、ここにいるべき人ではなかった。 あの言葉は、葬儀場の音の中に紛れなかった。焼香の鈴の音よりも、親族のすすり泣きよりも、ずっとはっきり残っている。 ここ、とはどこなのか。 如月家なのか。 祖母の葬儀の場なのか。 それとも、私の人生そのものなのか。 車寄せに榊家の車が停まっていた。相良さんが後部座席の扉を開け、律は車椅子のまま私を見上げる位置にいた。「このまま、榊邸へ戻れますか」 短い問いだった。 大丈夫です、と言いそうになって、やめた。「帰るしか、ありません」「では、今は戻りましょう」 律は康生の話を続けなかった。私も口を開けないまま、膝の保全袋の端を指でなぞった。 車が動き出すと、窓の外で葬儀場の白い灯りが遠ざかった。膝の上の小さな保全袋が、雨の光を受けて曇って見える。 守り袋。 祖母が、私に残したもの。 蔵の暗がりから取り戻した、古びた布の重さが、今さら膝に沈んでくる。「今日、ここで開ける必要はありません」 律が言った。 私は返事をしなかった。 開けたくない。けれど、開けなければならない。祖母はもういない。聞き返す相手は、どこにもいない。「……開けるのが怖いです」 律は保全袋へ目を落とした。「今、開けなくてもいい」「でも」「戻ってからでも、遅くない」 私は横を見た。 律の顔は、車内の薄暗さと黒い仮面で半分だけ影になっていた。左側の頬に手をやる癖だけが、仮面の縁の上に残っている。隠している時間の長さは、そう簡単には消えないのだろう。「ずいぶん
怒りでも面白がりでもなく、計算にない反応を一つ記録したような目だった。「それは、危うい」「危うくても」 声を出す前に、唇を一度湿らせた。 言葉は止めなかった。「知らないところで話を進められるのは、もう嫌です」 隣で、律の指が肘掛けに触れた。 康生は、ゆっくりと頷いた。「……静江様が、あなたを手放したくなかった理由が分かる気がします」 手放す。 その言葉が、骨に触れた。 私は祖母を失ったばかりだ。なのにこの人は、祖母の愛情まで、誰かが持っていたもののように言う。「祖母は、私を持ち物にしたことはありません」 声の終わりが揺れた。 言い直さなかった。「一度も」 康生の視線が私の喪服の袖口へ落ちた。守り袋は、バッグの奥にある。 それを知っているのか、知らないのか。 分からないまま、康生はまた微笑んだ。「大切にされてたのですね」「……大切な人でした」「ならば、なおさらです」 康生は一歩だけ近づいた。 律の手が肘掛けを押さえる。相良さんが受付台の横からこちらへ目を向けた。高瀬さんは少し離れた場所で、弔問客名簿を閉じる。 誰も大きく動かない。 だからこそ、全員が動ける位置にいることが分かった。 康生は、私だけに聞こえるほどの声で言った。「あなたは、ここにいるべき人ではなかった」 数珠の糸が、指の間で小さく軋んだ。 ここ。 如月家の葬儀か。 榊家の隣か。 朝霧栞という名前の場所か。 訊き返す前に、康生は一礼した。「それでは、また」 黒い喪服の背中が、会場の出口へ向かう。 足音は最後まで乱れなかった。 私は数珠を握ったまま、康生の背中が消えるまで立っていた。 律が私の名を呼んだ。「……意味を、聞くべきだったでしょうか」 よ
「申し訳ありません。面差しが、あまりに似てたものですから」「誰に、ですか」 言葉が先に出た。 康生の笑みが、ほんの少しだけ深くなる。 焼香台の白い煙が、途中で形を崩した。「……古い知人に」「古い知人」と濁した声を聞くと、さっき口の形だけで呼ばれた「葵」が蘇った。呼ばれたのは私ではないのに、その名が耳の奥にまとわりつく。「その方じゃありません」 数珠の房が、指に一本絡んだ。 声は思ったより低く出た。 康生は頷いた。「もちろんです。人は、誰かの代わりにはなれません」 祖母の声が一瞬よぎった。でも、康生に言われると、同じ言葉には聞こえなかった。「では、どうして今の質問を」 康生は答えなかった。 代わりに、祭壇へ目を向ける。 静江の遺影が、白い花の中で微笑んでいた。写真の中の祖母は、私を責めていない。けれど、何かを急かしているようにも見える。「静江様は、最後まで隠し事の多い方でした」 康生の声は穏やかだった。 数珠を持つ手に、力が入った。「ご本人は、それを愛情と呼ばれたのでしょうが」「祖母を」 言葉が詰まった。 祖母の葬儀で怒鳴り返すわけにはいかなかった。 それでも黙れば、康生の言い分を認めたように見える。 彼は私が返すのを待っていた。 その待ち方に、優しさは感じなかった。 律が低く言った。「九条様。弔問のお言葉は、すでに頂戴しました」 康生は律へ向き直る。「榊様は、相変わらず人を遠ざけるのがお上手だ」「今は必要です」「彼女を九条家から遠ざけるおつもりですか」「その話は、本人に聞いてください。私に聞くことではありません」 律の返答は早かった。 律はそこで口を閉じた。 康生の表情は動かなかった。 親族控室から聞こえていた声が遠のいた。 親族控室へ続く廊下から、誰かの足音が近づいてくる。葬儀社の人
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ







