Masuk開会の挨拶が始まると、ロビーのざわめきは少しずつ小さくなった。 窓際の席だけ、空調が強かった。 壇上では、榊グループの医療支援事業について、担当役員が説明している。支援金の流れ、対象施設の選定基準、監査体制。どれも、派手さはない。けれど、数字と手続きが並ぶたび、青嶺療養院の院長の表情が硬くなるのが見えた。 私は前方の席に座り、配布資料を膝の上で開いていた。 葵さんの名前は、どこにもない。 当たり前だ。ここは報告会であって、誰かの病室を暴く場所ではない。 紙の白さが少し苦しかった。 質疑応答では、支援先施設の透明性について質問が出た。 報道関係者の一人が、マイクを受け取る。「長期療養施設では、ご家族との面会制限や外部連絡の扱いが問題になることもあります。支援企業として、榊グループはどこまで確認されるのでしょうか」 質問が終わると、松浦院長が手元のペンを止めた。 予定された質問ではない。 けれど、悪意のある聞き方でもない。 担当役員は資料を見ずに答えた。「医療判断そのものには介入しません。ただし、支援契約上、面会制度、苦情受付窓口、記録保全体制などの運用は確認対象です。個別の患者様の情報じゃなく、制度として適切に機能しているかを見ます」 私は、膝の上の資料を軽く握った。 個人情報には踏み込まない。 でも、制度は見る。 私は資料の角を親指で押さえた。 青嶺療養院の松浦院長は、拍手の中で顔を動かさなかった。 ただ、手元のペンだけが、一度、資料の端を強く押した。 白い紙に、小さな点が残る。 その点を見て、私は思った。 少なくとも、この話題を気にしているようには見えた。「……今日は、やめますか」 隣の律が、小さく言った。「帰ったら、ここで何があったか、ずっと考えてしまいます」 律は私を見て、それから壇上へ視線を戻した。車椅子は、私の席のすぐ隣にあった。 資料を握っていた手が少し緩んだ。 式次第の後半、
「返事は」 律に聞かれ、私は首を横に振った。 卓上マイクの影が、資料の端に細く落ちていた。「返しません。もう、話すことはありませんから」 自分でも、声が硬くなったのが分かった。 律はそれ以上言わなかった。 今は、それでよかった。 報告会当日。 会場ロビーには、すでに多くの人がいた。医療関係者、企業の役員、報道関係者、支援団体の代表。名札の紐が胸元で揺れ、低い話し声が吹き抜けに反響している。 階段は、想像していたより広かった。 白い石の段。中央に手すり。踊り場には、大きな花器が置かれている。 三年前の如月家の階段とは違う。 違うのに、足の裏が少し冷えた。 入口近くで、受付係が私の名札を確認した。「朝霧栞様。榊様ご同伴で承っております」 如月ではない。榊でもない。 その呼び方が、今はありがたかった。 私は名札を受け取り、胸元へ留める。小さなプラスチックの板なのに、留めた胸元にかすかな重みを感じた。 会場の奥では、青嶺療養院の資料展示が準備されていた。高齢者リハビリ、長期療養支援、家族面談室の改善計画。写真はどれも明るく、白いカーテンと整った花瓶が写っている。 そこに葵さんがいるかもしれない。 そう考えた瞬間、展示パネルの笑顔が少しだけ遠くなった。「朝霧様」 振り返ると、灰色のスーツを着た男性が立っていた。胸元の名札には、青嶺療養院 院長 松浦和臣、とある。「本日はご出席ありがとうございます」「こちらこそ」 無難に返す。 松浦院長の目は、私の顔に一瞬だけ止まり、すぐに律へ移った。「榊様にも、長年のご支援を」「支援先の安全管理について、後ほど確認させていただきます」 律の声は穏やかだった。 けれど、松浦院長の返事が一拍遅れた。「もちろんです。可能な範囲で」 可能な範囲。 その言葉を、私は覚えておくことにした。 この人は、質問される前から答えない範囲を決めている。
けれど、足りないと言い募れば、また確かめるより先に動いてしまいそうだった。 グラスの水面が、空調の振動でわずかに揺れた。 律が、拒否文の最後を指した。「報告会には来るようです」 青嶺療養院の院長名で、出席確認の返信が添付されていた。支援事業への謝意、今後の連携への期待。きれいな言葉が並んでいる。 その下に、小さく名前があった。 青嶺療養院 院長 松浦和臣。 葵さんのことを知っているかもしれない人。 そして、知っていて黙っているかもしれない人。「会場で質問できますか」 高瀬さんは一度、言葉を選んだ。「公の場では難しいです」 高瀬さんが言った。「医療情報に触れる質問はできません。ただ、施設の支援事業、入退館管理、面会制度について一般論として聞くことは可能です」「一般論」「そこから矛盾を拾います」 派手な答えは出なかった。私は「一般論」と書かれたメモへ丸をつけた。 その夜、私は自室で報告会用の服を選んでいた。 派手すぎず、地味すぎず。榊家の席にいても不自然ではなく、未央が「みすぼらしい」と言い立てる余地も少ないもの。 そんなことを考えている自分に、少し笑いそうになる。 服一枚にも、まだ如月家の声が残っている。 鏡の前でジャケットを合わせていると、扉が控えめに叩かれた。「朝霧さん」 律だった。「開いています」 入ってきた彼は、手に小さな箱を持っていた。「宮野からです」「また宮野さんですか」「ええ。今回は本当に」 疑うように見ると、律は箱を机に置いた。 中には、控えめな真珠のイヤリングが入っていた。高価すぎず、安物にも見えない。服に合わせても、顔だけが浮かない。「借り物ですか」「榊家の備品です」「備品」「言い方を間違えました」 少しだけ、笑ってしまった。 律は困ったように目を伏せる。「つけるかどうかは」 律が言いかける。
「ここが報道受付です。一般来賓はここより内側へは入れません。階段上の撮影位置は、公式カメラと登録媒体だけに限定します」「未央さんが報道関係者を使う可能性は」「あります。ただ、登録のない媒体は入れません。招待状を持つ来賓として入る可能性の方が高いでしょう」「如月家の名義で?」「もしくは桐生家側の同伴者として」 桐生家という言葉に、指先が止まった。 平面図の紙が擦れる音だけが残った。 桐生司。 もう恋の痛みではない。それでも、三年前に私の言葉を聞かなかった人が、また同じ場所に立つかもしれないと思うと、古い傷のふちが少し熱くなる。「司さんには、こちらから連絡しますか」 私が聞くと、高瀬さんは一度だけ律を見た。 律は、私を見ていた。「朝霧さんが望むなら」「望む、というほどじゃありません」 正直に言った。「あの人に助けてほしいわけじゃないです。でも、また知らなかったと言われるのは嫌です」 高瀬さんが頷く。「では、桐生家窓口へ、会場内での接触トラブル防止に関する注意喚起を送ります。特定の人物を犯人扱いする内容にはしません」「その文面で出してください」 司に直接電話をすれば、たぶん声だけで疲れる。だから、窓口へ送るだけにした。 高瀬さんは、その場で会場側へ提出する注意喚起文の文案を作り始めた。階段付近での接触防止、来賓導線の明示、体調不良者が出た場合の救護手順。どれも地味で、見出しにはならない項目ばかりだった。 高瀬さんの画面に、救護手順、接触防止、映像保全の三項目が並んだ。私はその順番を黙って見た。「階段のカメラ、保存期間は何日ですか」「通常は三十日です。ただ、今回は会場側で当日分を別保全します」「今日のうちに?」「終了後すぐです」 私は平面図の端に、小さく三十日、と書いた。 その日の午後、青嶺療養院から面会申入れへの回答が届いた。 結果は、拒否。 理由は、対象者の心身状態への配慮と、家族代理人からの申し出。 対象者の
榊グループ主催の医療支援報告会は、翌々日の午後に開かれる予定だった。 壇上のマイクはまだ使われておらず、銀色の支柱だけが照明を拾っていた。 会場は、都内のホテルに併設されたイベントホール。二階へ上がる広い階段と、吹き抜けのロビーがある。青嶺療養院の関係者も招かれていると聞いた時、私は資料の端を指で押さえたまま、しばらく目を上げられなかった。 葵さんにつながるかもしれない場所。 同時に、未央が何かを仕掛けてくるかもしれない場所。 その二つが、同じ紙の上に並んでいる。「行かない選択もあります」 高瀬さんが言った。 榊邸の会議室には、律、相良さん、高瀬さん、それから情報管理部の主任がいた。机の上には、会場平面図、招待者リスト、警備計画の写し、報道受付の動線が並んでいる。 私の前に置かれているのは、未央の手元へ届いた可能性のある案内図の印刷だった。 赤い線。 階段。 踊り場。 撮影位置。 赤い線の上で、目が止まった。「行きます」 返事は、自分で思ったより早かった。 律がこちらを見る。「理由を聞いても?」「逃げたら、また私のいないところで話が作られます」「危険を承知で、ですか」「危険だから、準備します」 言い切ったあと、膝の上の手を開いた。指先は冷たかった。「ただし、条件があります」 律は平面図から顔を上げた。「またですか」「嫌そうですね」「いえ。慣れてきました」 相良さんが、かすかに口元を伏せた。笑ったのかもしれない。 私は平面図へ視線を戻す。「まず、私は一人で階段付近へ行きません。移動は相良さんか会場スタッフに同行してもらう。未央さんに呼び止められても、個室や階段横の死角には行かない」 平面図の階段横に、赤いペンで小さく印をつけた。そこだけ、紙の白さが妙に目立つ。「それから、ロビーと階段の映像は、会場側の公式記録として残してください。私のためだけじゃなく、安全管理として」「妥
「見せる?」 『本物かどうかを決めるのは、血だけじゃありません。信じさせた方が勝つ』 電話を耳に当てたまま、未央は息を詰めた。 その言葉は、優しくなかった。 でも、未央の胸にはするりと入ってきた。 信じさせた方が勝つ。 三年前、その言葉を知らなくても、未央は同じことをしていた。 「栞を、また悪者にしろってことですか」 『私は何も命じていません』 康生は、わずかに笑ったようだった。 『ただ、人は一度刷り込まれた印象を信じやすい。被害者がまた同じ相手に傷つけられたとなれば、周囲は理由を探すでしょう』 「……ひどい人」 『そう思うなら、切ってください』 切れなかった。 康生はそれも分かっている。 未央は奥歯を噛んだ。 『場所は送ります。来るかどうかは、あなたが決めることです』 通話が切れた。 未央はしばらく、暗くなった画面を見つめていた。 証明。 何を。 自分が本物だということを。 栞が危険な女だということを。 司が間違っているということを。 全部、証明しなければならない。 続けて、もう一通届いた。 日時と場所だけが書かれている。 榊グループ主催の医療支援報告会。 会場には、青嶺療養院の関係者も招かれる予定。 続けて送られてきた添付画像には、会場の案内図があった。 二階へ上がる広い階段。 踊り場。 来賓控室。 報道用の撮影位置。 どこに人が立てば、どこから見えるのかまで、赤い線で印がついている。 未央はその画像を拡大した。 栞はきっと来る。 葵という女の名前を出されれば、あの人は逃げない。逃げないくせに、きれいな顔で正しい手続きを踏む。そういうところが、昔から気に入らなかった。 案内図の赤い線を見ていると、喉の奥が少し乾いた。 怖いと思ったのは一瞬だけだった。 使える。 そう思った自分に、もう驚かなかった。◇ 未央は唇を噛んだ。 人前。 階段のある会場。 栞が逃げられない場所。 三年前の光景が、頭の奥でゆっくり形を取り戻す。 階段の下。 倒れた自分。 泣き声。 父の怒鳴り声。 あの時、すべてがひっくり返った。 未央はスマートフォンを伏せ、車窓に映る自分の顔を見た。泣いた跡は、化粧で
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし







